hirunireの庭

日記、詩(のようなもの)。

十二月の日記

 地下鉄のターミナルから地上へと繋がる階段をひとつの方向にむかって駆け上がる。頬を撫でる冷たい突風が下へ下へと吹き抜けていく。北の十二月。

 札幌という街を離れてはじめて灰色の天気を愛おしく思えたような気がする。凍てつくような寒さの大粒の湿った雪、強い風をかき分けるようにして目蓋をあけてもなお、家にたどり着かない困難を忘却したとき、この街をいつくしむことができる。

 visitorにとって綺麗事、この寒さも雪のきらめきも。今わたしが懐いている思いもすべて綺麗事だったらどうしよう。ドーナツのように空洞の街。

 

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 雪、それは音を吸収する。吸い込まれていく音はどこへ行ってしまうのだろう。春を迎えたチューリップの栄養になっていたらいい、と思う。なり果てる、失くなる。また巡る。極端な季節を行ったり来たりしたその先に、わたしの望む暮らしはあるのだろうか。いつか。

 

いつ起こるかわからない地震に、わたしたちはいつまで怯え続けなければいけないのだろう。元旦。テレビやタイムラインから流れる速報に不安が鮨詰めにされて死へと向かっている感覚。「ただちに」とか「なりふりかまわず」といった言葉が目に入り、2011年と同じことがまた繰り返される、広告の不在。そして壊れたように壊れていないテレビが鳴る。また、まただ。わたしはあの時と同じ、安全なところにいてニュースが伝える“数”が増えないことを祈ることしかできることがない。ほんとうは数ではなくひとなのに。

 冬の日本海はつめたくてたまらないのだろう。そんな温度に引き摺られて同僚が濃紺の海へ消えていっているかもしれない可能性があることに心臓を握り潰されている。今。17:06

 

 なんとか同僚は短パンのまま逃げ、生き延びた。無事だった。よかった。こころから思った。18:06

 

いまガザで起こっていることはわたしがいくら考えようとも理解することのできない深刻さであると思う、或いはつらいと思う前にいのちが奪われてしまう。そんなに簡単に人が死んでいく姿を見ていながら殺戮が実行されてしまうことを思えば人間が残すことができるのは骨と言葉だけなのかも知れないと思う。最後に残った言葉が伝播し戒律をつくり殺戮が生まれるならば、その言葉は神ではなく客を喜ばせるだけのソフィストの小手調べ。そんな体裁だけ整えられたプレイに多くの人がいのちを奪われるなんておかしいと思いませんか。

decaying

 

 

 

 

留めておきたい感情が誰の言葉にも当てはまらなかったら流れる日月だけが平等に記憶を腐らせることになっている。細胞が、葉脈が、まるっきり入れ替わる頃には私はひとつの葉となって風の中を舞うだろう。塵と等しくなったというひとつの事実に香りづけをして、ティーカップスリランカの夕陽の色に染め上げる。そうして、私は愛がするのと同じ様にそっくりそのまま循環していく。誰の腕からもすり抜けていく私を私は祝福しながら、今までしてきた我が儘に蓋をする。清算が天秤にかけられる頃には私はふやけてひとつの出涸らしとなり、なんの役にも立つことはない。文字通りの屑として土の一部に成り果て腐った果実を飲み込んでいく。理由もなく私はそれを祝福する。忘れ物のない旅行なんてない様にこの世界にひとつ、残して、螺旋階段を駆け降りる。わざと足音を立てるのは、君に気づいて欲しいからだよ?

10/18

津野米咲さんがわたしの世界から席を外して3年が経った。わたしは赤い公園の熱心なフォロワーではなかったけれど、今年2回失恋してから赤い公園の音楽に救われている。文字にすると淡々とした事実だけれど、わたしは簡単に人を好きにならないから結構来るものがあった。それは文字通りわたしの社会に於ける属性に起因するものであり、わたしの不埒な態度に起因するものでもあった。今日は仕事中に気が触れてしまうことがあって誰にもバレずに頓服薬を飲んだ。いつまでも追いかけてくる幽霊みたいな好きだった人の幻影の代わりに津野米咲さんが付いてきてくれたら良いのに。こんなにわたしの味方でいてくれて、自立する理由になる音楽は他にはない。メロディーにときめいたり、歌詞の主語がバカ大きくて元気が出たりする。3年。この3年。もう津野米咲さんの手掛けた新譜を聴くことができないことが、もっと、なんか、作りたい歌があったんじゃないかって思ってもうなんか祈ることしかできない。希死念慮って突発的だし条件が揃えば本当にその気になってしまうと思うから、少しこわい。だから、つらいって言える人をちゃんと選ぶ。他人の器に水が飽和していたら溢れてしまうだろうし、そもそもその器が満ちていることに気が付いていない人に、溢れることがわかっていてそこに水を注ぐのは酷だと思うから。大人になると、いつも大丈夫みたいな顔でいなきゃいけないみたいな空気感が共有されているけれど、わたしはそれを強いられているみたいで苦しい。大丈夫じゃないときは隣にいてくれなくても話をしたい。それが大人の態度じゃないって、我が儘だって、とっくに知ってる。

千日紅

季節は信号じゃないところがおもしろいって思う。いつまでも眺めていたい斜陽の、寒々とした横顔のこと。身体を冷やさないということは温めることではないということ。この世にたらこスパゲッティがあって良かったという雑感。

しばらく会わないと顔も声も忘れてしまうから、わたしの中にリザーブをとってどこかへ行ってしまう人々のことをすこし嫌いになる。多分、嫌いになってしまう自分のことを心底愛せる自信があるからほんとうの意味で他人のことを好きではいられないのだと思う。触れられるのに在るものと、そこに在るのに居ない幽霊が、わたしと関係ないところでぐっすり眠られますように。眠る前には嬉しかった羊しか数えないし、わたしは忠犬じゃない。

重陽の節句

秋になって暑さのことなど頭からすっかり抜け落ちて、誤魔化しの効かない現実がこちらに向かって歩いてきた。すこし涼しくなっただけなのに、今まで蓋をしていた事実が自力で起き上がり、こちらは寂しくなったり涙があふれたりして忙しい。はじめて秋が苦手になりそう。